十五やの縄
「縛ることは抱きしめること 有末剛の進化する緊縛哲学」
有末剛が縄をさばく姿は洗練された武道の型に見えるという。洗練されているが故に、動と静の間合いが美しい。緊縛師と女体と縄、その三位一体の流れるような造形美こそが緊縛美の醍醐味である。
「縄作りに終わりはない」「世に出せるレベルのものにようやく辿り着いた」工房の片隅で麻縄をなめしながら有末剛は語った。麻縄は肉体に直接触れるが故に、触感が一番気になるのだ。
「縛ることは抱きしめること」それは、緊縛師として三十年以上、一万人以上を緊縛した有末剛の言葉である。そして「緊縛とは肉体の拘束と精神の解放」を意味する。緊縛は、縛る方と縛られる方がお互いの理解の上に立つ高度に洗練された駆け引きである。
縛られた女体は美しい。
さらに、有末剛は緊縛を活け花にもたとえる。女体が花で、それを活けるのが緊縛師であると。花にも女体にも種類があるように、活け方によってできあがりの作品も一つとして同じものはない。だから緊縛は芸術なのだと。
緊縛には嵐のような責めの緊縛と、愛撫するような優しい緊縛がある。縄は相手の求めによって菩薩にも夜叉にも変化する。使う人間の心のありように支配される魔物である。
有末剛の提案する「十五や」の縄は、有末剛が自らの手で丁寧に作り上げた妥協のない縄である。だから、決して量産はできない。いかなる縄が芸術としてあるいは責めとしての縄たりうるか。その形が、柔らかく、厳しく、さばきやすく、強い縄、それが「十五や」の縄の哲学である。